合奏指揮は楽しい
先日某コンサート会場にて懐かしい方に偶然お目にかかり、共に観劇させていただきました。

私が25歳ぐらいの時のこと。京都の吹奏楽団で副指揮者をさせていただいておりました。

ある日私が担当した合奏練習後、彼は私に告げました。確か、こんな話だったはずです。

「みんな吹きに(弾きに)来てるんやから、もっと吹かさなあかんで。あんたの話を聞きに来てるんやないんやから。」

単純に通し練習ばかり繰り返しても、疲れるばかりで練習の意味あんのかな?。てな具合に、その当時もその後20年以上経っても、なかなかうまく出来ませんでした。最近やっと、その意味がわかってきたのかなぁと。

最近私は、トロンボーンと初めたてのヴィオラで奏者として、方や細々と指揮もさせていただいております。最近ふと思ったことがあります。

良い合奏練習というのは練習中に、「あぁ個人練習がしたい、もっと個人練習してくれば良かった!」と思えるものではないか、と。

とまぁそんなことで、下手くそやけど、合奏音楽は楽しいのですね。
彼を知り、己を知れば、百戦危うからず。
「こちらには、相手に言いたいことがある。
相手には、こちらに言いたいことがある。」

「こちらは、相手に言い分を聞き入れて欲しい。
相手は、こちらに言い分を聞き入れて欲しい。」

韻を踏むというのは、音楽的なことですね。
タイミング、音程、リズムを変えて、音楽は韻を踏みながら ある方向 ある目標 に向かって展開していく。

そんな話をしようと思って書き出したわけではありません。(^_^;)

要は人間って、自分の言い分を聞いてくれた人の言い分は、聞きたい気持ちになると思うのです。

ただ、自分の言い分を“聞いてくれない人”の言い分を聞き入れてあげることが必要な場合も、あるのかもしれません。

指揮者、それは、自分の考えた音楽をきちんと要求できる人。それが前提。

ただ、相手も長年音楽を愛し勉強してきた人。そのプレーには指示がなくとも、「こうあるべきだろう」というその人の中での考え、幾つかの選択肢を経たその時々での結論が表現されていると考えるべきだと思います。やり方を変えてもらう時もあれば、相手のやり方を採用させてもらう時もある。その選択も指揮者の能力・戦略であり、“良いものは受け入れたいという態度”が必要ではないでしょうか?。

プレイヤーに「弾きやすい指揮者だ」と思っていただければ、しめたものです。


巨匠から名アシストへ〜指揮者の潮流
巨匠時代の名残で今も指揮者は絶対的な存在というイメージの人が少なくはないですが、日本では今 指揮者はプレイヤーをアシストする役割もある という考え方が、新たな潮流を生み出しつつあると思っています。

アシスタントというと日本では付け足しみたいですが、たとえばサッカーでは、ゴールを決める人に巧みな技術でパスを出す人を、名アシスト なんて言いますね。

作曲家と演奏家の仲立ちをし、溶けてしまう。
そこに音楽だけが浮かんでいる。

私なりに解釈した、広上淳一さんの言葉です。

- CafeLog -