第3章 個人と社会の出会い~構造的分析
第1節 自我の構造
生まれたばかりの赤ん坊は、「私」という自己意識を持たない、いわば自他未分化の状態であるという。また、少し大きくなって言葉を幾つか覚えてきたころには、自分のことを伝える際、「ぼく」「わたし」等の一般的な自称ではなく、「~くん」「~ちゃん」というように、他者が言う通りに模倣して自分のことを名前や愛称で言い表し、やがて、「ぼく」「わたし」といった一般的な自称を使い出すという。つまり、自他差別意識のない、いわば真白な状態に、「自分の思いどおりにならない、自分ではないものとしての他者」が登場し、他者とふれあう体験を重ねてゆくにつれて、「私の行為に反応したり、私に何かを求めるものとしての他者」と「私」を、相互関係が生み出し、分化するのだといえよう。この相互関係自体を客観的に認識するのは不可能である。関係の中には自分が折り込まれているのだから、客観的立場には立ち得ないのである。しかし、他者の中に私(に対する反応や期待など)を見ることは可能である。これは、「鏡の中の自我(Looking-Glass-Self)」と呼ばれる。自己意識の芽生えは、Looking-Glass-Selfの第一の働きだといえる。
こうして芽生えた自己意識は、「人に良く見られたい、ほめられたい」という意識を自己の側面にプラスしたものであり、これらは矛盾を含んだ自己の両側面として「自我」を構成する。G・H・ミードの自我論を取り上げてみよう。彼によれば、自我は社会的産物であり、三つの段階を経て発達する。 13)
第一段階は「模倣」であって、子供は成人の行動を真似るに過ぎない。
第二はプレー(Play)段階であって、相手の人の役割(Role)を行動してみること(役割取得)によって相手の見地から自分自身を見ることができ、行動に対して相手の人と同じ意味を付与することができるようになる。(視界の相互性)
第三のゲーム(Game)段階においては、同時に数人ないしそれ以上の人々の役割を取ることを学習する。つまりゲームに参加する他者全員の態度と期待を捉えなければならない。他者全体、言いかえれば集団全体に態度や期待は、「一般化された他者(A-Generalized-Other)」を構成する、とミードは言う。彼の考えでは、自我は、「I(主我)」と「Me(客我)」から成る。客我とは他者の態度を受け入れたものであり、自分にとって重要で有意味な他者(Significant-Others)や社会的成員の期待から成る自我観念のことである。他方、主我とは"客我に対する反応"であり、有意味な他者に対する反応である。プレーとゲームの段階を経て、このような自我と客我が文節化し、両者の相互作用として自我が存立するようになる。
客我とは何か、具体的に把握するために有用なのは、自分とは何か、を描いてみることである。これは「自己概念像」とよばれる。「私は~である」というような自己の把握のしかたは、認識対象としての自己を措定してしまうために、自己の可塑性や、絶えず運動し変化し続けている自我のノエシス面等を暗に否定し、単にノエマ的表象である過去の記憶や、現在から未来に向けて、おそらくこのようなものであろうという一時的、規定的なものとして、自己を不完全な形でしか認識できないのである。「自己同一性」ということも同じ事が言え、他者の期待にかなうような自己として、他者に要求される側面を見逃すことはできない。
「地図」とは本来、「現地」を表象するためのものであるが、「自己概念像」という地図は、「今この瞬間にも作り出され続けている自我」という現地を規定することで、限定的、方向的にしてしまうのである。主客転倒の状態である。しかし本当は、純粋な現在の自分は把握することができない。このことは、われわれの時間の体験構造によっても説明できる。意識された時間は常に過去か未来かのどちらかであり、「今」を意識したとき、もはやその時、先程の「今」は過去なのである。
客我とは、このように普遍性・方向性を求める自我の規定的、受動的側面である。主我とは、客我に対する反応だといわれている。主我は絶えず変化し続ける可能性(可塑性)をもつ創造的で能動的な側面であるが、客我的側面による方向付けが無ければ能動的であることが不可能になる。より正しく言うと、目的も無いままふらふらとさまよい続けることが不毛であることに近いのと同じようなことである。
自他未分化な意識を、「自己」と「他者」に切り離し、距離を置き、異なった意味付けをすることによって自己意識を獲得した我々は、自己を中心に外側へと広がってゆく視界(Perspective)によって対象としての「他者」を認識せざるを得なくなり、自我の主客的分裂をも招いてしまったのである。
13)塩原勉『社会学の理論Ⅰ』放送大学教育振興会より
第2節 社会関係における他者
他者とは何か、という際の他者とは、「私の視界の中にいる認識客体としての他者」なのである。自己意識を獲得する際、「私に何かを求めるものとしての他者」が出現し、以来我々は、常に他者の期待を自分の行為に折り込んできたのである。
我々は、他者を把握する際に、自分が見知りする限りの情報で他者を表現する。近くとは、人間にとって日常生活的な意味付けを伴い、また日常生活の中で必要な情報のみに働くものである。これを「ゲシュタルト(Gestalt)的知覚」という。「彼は追大生である」「彼は日本拳法部員である」「彼は喫茶点の店員である」など、典型的で限定的な情報が誇張され、あたかも彼自身全てを表わすかのように思い込んでいるだけなのである。我々が初対面者に対して自己提示して行く際、相手に良く思われそうな「期待される人間像」を先取りし、それに合った部分から紹介していく。これは「印象操作」と呼ばれる。
このような形で他者は、我々に期待通りの行動を求め、時にそれは強制や拘束のような「力」となる。これがLooking-glass-selfの二つ目の働きである。優越感や劣等感は他者の期待が自我に働きかけ、自分の行動に合致していたりずれていたりすることによって認識することによって生じるのである。強制や拘束にとどまらず、他者は私に向かって予測しなかった反抗をしたり、攻撃したりするような、不確定な存在であることも、他者の他者性を理解する重要な要素である。
第3節 自覚の後至性の体験 14)
今まで行ってきた自我の構造や社会関係の分析は、自己と他者という各々が視界を持ち、視界の中で他者を認識し、他者の視界の中の認識客体となって視界が交差するところの社会の成り立ちの説明である。つまり自己意識を獲得した我々は、
自他差別を前提条件として社会を作り出し、認識しているのである。このことは、自他未分化な連続的世界に起こった出来事にしか過ぎないといえよう。自他未分化の意識が、自我の現在の体験に結合している。これは自覚によって意識される後至性の体験によって明らかとなる。
自覚において我々は自ら立ち、自ら決定することを意識するものであるが、ここに後至性の体験が結合していることは、我々が単に自ら立ち、自ら決定する存在する存在であることの"根元的であることの否定"を含み、また我々を立て、我々がそれに依存する主体的なものの世界に我々が本質的に連なっているということの意味を含んでいる。
我々が汝志向を持っているということにおいて、我々に応答する主体が、したがってまた呼び答える相互的関係が人間の体験構造より本質必然的に措定されている。このような呼応の関係を「視界の相互性」と規定するのであって、その示すところは要するに、「社会の意味の中には、個人的諸中心とそれらの間の内的関係との契機が本質必然的に結合されている」ということ、個人は社会に促して個人であり、社会は個人に促して社会である。社会と個人は相互に内在している。(ギュルウィッチ)」ということである。
14)蔵内数太『社会学』培風館及び吉田正教授『教育社会学講義資料』を参考