第4章 出会いがもたらすもの
 

第1節 生活世界における出会い
 

私が最近体験したある出来事を記述し、出会いを考える一例としたい。

私がコンビニエンス・ストアのレジで、釣銭を受け取っている時のことである。店員は千円札9枚を一枚ずつしごきながら取り出し、1枚1枚めくりながら丁寧に数え、裏返してもう一度丁寧に数えてくれた。私もアルバイト先でよくレジに立つのだが、ここまで丁寧に数えたことはなかった。彼にとっては自明の義務遂行であったろうが、私にとっては確認の手間を省いてくれた行為であり、礼を言いたい気持ちになった。しかし、私の次にレジを待っていた客は、少しばかり苛立っているようであった。私はその態度に対して不愉快な気分になった。しかし次に、すぐに私は自分もその立場だったら苛立っていたのではないかと思い、はっとした。

その客の態度に苛立っている私は、非連続的な自己中心的、一方的視界の立場であり、次にその客の立場に気づき、自分を同化(置換)したときの私は、相手の視界との交差に気付いた連続的相互主観性の立場(あいだ)に立つ私に転換することが出来たといえる。苛立ちに気付いた客我的な側面から、主我的側面によって不愉快さ、怒りを生じ、それを今度は客我が抑えるという主客分裂を目の当たりに感じた(認識)のである。また、店員に礼を言いたくなった時の私にとっての"汝"は店員であり、客の立場に気付いてはっとした時、私にとっての"汝"が、店員から客へと代わったと言えるであろう。逆をいえば、"それ"としての客が"汝"に変わった瞬間、店員は"汝"からそれへと変わったともいえる。

木村敏は、その著書にまた、「全ての"汝"は同時にいくらか"それ"であり、全ての"それ"は同時にいくらか"汝"でもある、というのがもっと本当らしくはないだろうか。」と書き、「我を語るときの人間は、何かを対象物として有したりはしていない。」とブーバーが"我-汝"について言っている事を訂正しようとしている。この事例は、この事を説明し、裏書しているのである。15)

ところで、もし私が、苛立つ客の立場に立たず、主我的側面の表象であるところの不愉快さを抑えていなかったら、どうなっていただろう。また、店員の行為の中に、自分に対する奉仕の意味を見出せずにいたら、どうなっていただろう。その結果は、「おっさん、なんか文句あんのか。」であり、「にいちゃん、釣りぐらい早よ渡せや。」であろう。店員の立場にも、隣の客の立場にも立たない時、彼らは自分と同じ人間として意識されない"それ"である。店員は、商品を手に入れるための「道具存在」であり、隣の客は「事物存在」であるともいえる。決定的にいえる事は、相手の立場に立たない時、視界が交差しない時に、出会いは生じないのである。

第2章において「出会う対象」についての分析を試みたが、私の分析は、日本文化という大きな枠の中の、私の体験という枠の中という前提によって限定された、いわば一般平均的日本人の体験程度にしか拡大できない。

ある一人の人間にとって、一生の間に所属出来ない集団は無数にあれば、所属する可能性を持つ集団も無数無数にあるというように、出会いもまた、無数の可能性と、無数のすれ違いという宿命を背負っている。まだ触れていない書物、レコード音楽などは、ある程度の期間、出会う可能性を有するが、一度しか行われない各種パフォーマンスに触れるチャンスは、一度(時間的には一瞬、空間的には一ヶ所)しかなく、我々は出会えたかも知れぬこれらの事を、無数に逃しているのではないだろうか。

15)木村敏『あいだ』弘文堂より
 

第二節  日常生活を超越する出会い
 

(1)音楽との出会い

音楽とは万国共通の言語だといわれる。音楽は、演奏者自身ではなく、演奏される譜面でもなく、記録されたレコード、テープ、CDでもない。それは、演奏者と鑑賞者との「あいだ」に存在している。音楽は、言語になぞらえるなら、文章語ではなく、話し言葉であり、呼び掛けである。我々は言語を使ってコミュニケートするが、言語そのものは意味そのものではない。ヴィトゲンシュタインは、「言語ゲーム」という概念について次のように定義している。16)

これらの言葉のうちには、人間の言語の本性に関する特定の映像が与えられているように思える。すなわち、言語に含まれる一語一語が対象を名指している『文章はそのような名指しの結合である』というのである。こうした言語像のうちに、我々はどの語も一つの意味を持つ、という考えの根源を見る。この意味は、語に結び付けられている。それは語が指示する対象なのである。」それでは、音楽が万国共通の言語であるなら、その万国共通の意味とはなんだろうか。

私たちは、幾つかの体験に際し、その時生じた気持ちを「言葉にできない」うれしさ、楽しさ、悲しみ、苦しみ、怒り、であると表現する。極めて率直な喜びの感情は、「うれしい」と言葉にするより、「うわぁ」といった吐息にも似た感嘆の声の方が、より忠実に表わせるのである。逆に、極めて深刻かつ痛切な悩みを抱えているとき、「苦しい、悲しい」と幾つか言葉を並べても、「うーん…」という感嘆、それも音声としてより心の中の雰囲気としての(うーん…)を語る、思うことの方がどれほどか忠実に感情を表わしてくれるだろう。

私は音楽を聞いたとき、このような体験をする。「感動した、良かった、素晴らしい」だけでは表現しきれないあふれる喜びと幸せは、心の中の(うわーっ)や(あちゃーっ)の方が、真実により近いのであり、言葉では言い表わしたくない。このような意味で音楽は、我と汝の根源的融合の地平に我々を導くあいだそのものとなることによって、私への呼びかけとなる。

16)菅豊彦『経験の可能性~ヴィトゲンシュタインと知の基盤』法律文化社より
 

(2)死との出会い

私が広瀬隆の著書「危険な話」を読んだ体験は『死との出会い』と呼びたい。彼の論が、科学的に正当なものであるかどうかはこの場で議論することではない。問題なのは、「今、死にたくない」という私の気持ちである。近い将来、今日明日中にも原子炉が爆発するかもしれない。近くで起これば確実に死ぬのだという彼の言葉は、私の現在の意識死活を根底から覆した。

来月もらえる給料によって生活の糧を得、その為に働き(アルバイトし)、コンサートのために楽器を買い、卒業するために単位を習得しようとするなどの行為は、未来性を含んだ現在の行為であり、未来が無いと仮定するなら、現在の生活は無駄な努力に帰してしまう。死との出会いは、無との出会いとも言える。金も楽器も単位も、自分が無い(存在しない)のなら何の意味も価値も与えられない、つまり存在しないのである。

E・フロムは、現代は「持つ文化」であるという。「持つこと」と「在ること」のどちらがより重要か、死との出会いは雄弁に語ってくれる。17)

17)E・フロム『生きるということ(To have or To be)』佐野哲郎訳・紀伊国屋書店を参考
 

(3)異文化との出会い

先日私は、アジアの他の国々に住む三人の人たちに、通訳を通して質問し、答えてもらうという機会を得た。この時得たことはいろいろあるが、二つ述べてみたい。

一つは、相手を信頼しなければ、相手の言っていることは私の体験の中では事実ではないということ。もう一つは、彼らの国が日本を視界に置いて重要な国と捉えているのに対し、私の視界の中で、彼らの国々が殆ど無に近い状態だということであった。

彼らは、私を見、私に向かって一生懸命話してくれたのである。マスメディアを賑わすODA、森林破壊、反日感情等の問題が彼らの口で語られたことを通訳してくれた人の口で聞きながら、「彼らの言うことをそのまま鵜呑みにして良いのだろうか。」とふと思った。

私たちは、日本にいる限りマスメディアを通さずface-to-faceで諸外国を体験するのは不可能ではないかと思われる。しかし実際体験している人々と直接会って、話すことはできる。彼らの言うことを「信頼」することは「視界の交差」を可能にする。彼らの目、体全体から感じる真剣さを感じることによって、私は彼らを信頼しようと思った。
 

(4)生との出会い

人類は昔から、自然を畏れ敬った。太陽や海や大地の恵みは我々を生存せしめ、地震、雷、厳寒や猛暑や干ばつや飢饉などの天災は、我々の命を奪うことすら可能である。この意味において、自然との出会いは、死との出会いをも統合した生との出会いといえるだろう。

我々と自然との出会いは、広くは生物と生物以外の全てとの出会いであり、これらは根源的に融合し、相互に存在を規定しあっている。自然が存在しなければ、我々(生物)は存在しないし、我々(生物)が存在しない自然とは認識できるはずはなく、我々はそのような状態を措定することは不可能である。

この「生との出会い」は、出会いを可能とする根源的理由である。これは別な言い方をすれば、我と汝の「共生の原理」である。我々が他者を意識し、自己意識を獲得することは、「他者と共生できる」所与を与えられるということである。共生を可能とするのは、視界の相互作用であり、生を認識することを可能とする形式は、自我の主客的分裂であり、機能は、既に存在してきた我の存在を意識の対象として後から被覆しようとする後至作用である。18)

これら2つの作用を可能とさせる契機こそ「出会い」の本質的作用であり、この意味において、「出会いそれ自体は意味を持たない」といえる。我々が生きるためには「共生の原理」が作用しなければならない。そのために我々は、他者と出会わねばならない。そして他者と出会うためには、信頼しなければならない。他者に期待するだけでは信頼とはいえない。自分に、他者の期待を受け容れる準備があってこそ、来たいは信頼に裏付けられているといえる。

18)吉田正教授『教育社会学講義資料』を参考
 

第3節 現代の鍵を握る出会い
 

(1)face-to-faceの減少~人間疎外

テレビを中心とするマスメディアは、この国では今や、欠くことの出来ない存在である。世の中に流通するモノは数も種類も多く、販売合戦は凄絶である。同時代人は増える一方であるのに対し、共在者としての家族は核家族化によって減り、病人・老人は、病院・施設へと送り込まれる。家族が減った分を補うように、ペットを飼う家庭は増えている。

こんな社会で今問題になっているのは、人間疎外だという。人間が、人間の役割をモノにさせ、人間どうし関わる時間を減らしてしまった結果、いざ人間が恋しくなった時は、われわれ関係の仲間は少ないが、人付き合いもヘタクソになってしまっている。

このようにならないためにも、現代は出会いを大切にしなければ行けない時代なのである。身の回りの出来事は、多数性、ルーティン性を持つモノがface-to-faceのリアリティを持つものより増えつづけてきた今、出会いは"確保しなければならないもの"となってしまったのではないだろうか。我々はこれから、自分の期待を満足させるモノとの関係を醒めた意識で見つめ、自ら他者を受容する姿勢で他者に積極的に関わっていかなければ、疎外感を持つ人間は増える一方であろう。
 

(2)ストレス・スランプとの出会い

現代人はストレスがたまりやすいということは、マスメディアの宣伝文句のように良く耳にすることである。ストレスの原因は一つではあるまいが、出会いの減少がストレスを生むとの解釈はどうであろうか。

ストレスとは、対人関係がうまく行かないと言う事が第一因だといえそうである。他者に働きかける社会的契機は"役割期待"である。ストレスを生み出す病理的な期待には」、2種類が考えられる。

一つは他者に求めるだけの"一方通行的な期待"である。これは他者の期待、ひいては相手の視界中心的立場が織り込まれていない期待("依存")であり、"信頼"ではない。自分の立場を理解し、期待を受け容れる姿勢の無い人間の期待は、受け容れられにくいであろう。もう一つは、他者に自分と同じである事を期待する事である。これも相手の視界の中心的立場を理解していない事は前者と同様である。ストレスは、他者の期待を受け容れる事と、他者を信頼する事を否定(あるいは拒否)する心の様相が生み出すのである。

また、スランプも同じように、出会いの減少が生み出すと仮定できる。畑に同じ野菜ばかり植えていると、だんだんと土壌が悪くなり、育ちが悪くなるのと似ている。いつも同じ作業を繰り返し、同じ場所を往復し、同じ人達とばかり会うのは当然出会いを減少させる。しかし、現代的な社会に住む我々は、一旦日常生活の役割パターンが決まると、なかなか同じパターンから抜け出す事が困難になりやすい社会構造であり、精神的にも、それを安直に遂行してしまう。日常生活のこのようなルーティン化は、人々から出会いを奪い去り、生きている事さえも実感できなくなり、これがスランプの要因なのである。
 

(3)自然と共生すること
 

今日世界では、西側と東側の壁が徐々に無くなる方向にあるという。東側の体制の敗北と言う図式はともかく、これは世界の中の大きな出会い、大きな前進といえるだろう。しかし一方では、公害問題、地球の砂漠化の問題が年々深刻になりつつありる現実を我々は直視していかなければならない。我々を取り巻く自然環境無しには、我々は存在し得ないからである。日本に居ては実感しにくい多くの危機を、アジア諸外国の方々は語ってくれた。もちろん日本でも、不安の時代と言われてはいる。これが死への恐怖の時代となる前に、我々は自然と人間の連関を取り戻していかなければならない。

1989年提出
1999年校訂