第2章 出会いの対象 ~類型的分析
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[図1]生活世界の社会的構成

矢谷慈國教授「知識社会学講義ノート」を参考

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[図2]日常社会の現実と、多元的リアリティの諸現実
 

矢谷慈國『生活世界と多元的リアリティ』関学生協出版会を参考

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第1節 何と出会うのか
 

出会いを論ずるにあたってまず考えられる事は、人間は何と出会うか、ということである。そしてこの事は、どういった対象と出会うのか、またその対象と出会ったとはどういう事かという、2つのレベルの意味を含んでいる。本章においては、どういった対象と出会うかについて問題にする。

友人・恋人・親・音楽・死など、様々な対象を思いつくままに書き出しているうちに気付くのは、これらの対象が「自分の体験」という限られた世界の諸事物でしかなく、それらをいくら細かく分析したところで、単なる私小説に終わってしまうのではないか、という危惧であった。これらは更に、自分が直接的で対面的な状況の下に出会った対象と、「~との出会い」という名で、他者と対象との出会いを客観的に見聞きしたその対象とに分けることができる。しかし、自分で個人的な対面的状況において過去に一度起こった出会いを、他者をも含んだ人間一般の出会いにあてはめても良いのであろうか。
 

第2節 視界の相互性と自明とされる世界の相互主観性8)
 

A・シュッツは、生活世界の中の諸対象が、原理的に私と他者に同様のものとして経験されるということが成り立つ根拠に関しては、「視界の相互性(reciprocity of perspectives)」の概念によって説明している。この概念は、二つの構造契機によって成り立っている。

一つは「立場の相互置換可能性」である。同一の対象は私の立場から見られた場合と、他者の位置から見られた場合では、異なって見える。私の位置からのその対象の操作可能性と、他者の位置からのそれとも異なる。同一の対象を見ている私と他者の位置を固定させて考えると、同一の対象は見る位置に制約されたそれぞれの異なった像としてしか見られないが、私の相手が私の相手が相互に見る位置を交換すれば、私は相手が見ていたのと同じ像を見ることができるし、逆もまた真である。私も他者も、ただ一つの位置からしか世界を経験できない静止体ではなく、自由に移動できる身体を持った主体であるから、立場の相互置換可能性の理念化によって、共通の対象を措定する事も可能になる。

もう一つは、「妥当性(relevence)の体系の一致」である。私の生活史と他者の生活史は異なっているから、異なった妥当性を持つ。しかし、同一の対象に同時に関わる目下の状況の下では、各々の独自の生活史的状況の妥当性が決定的であるのではなく、私と他者とが同時に一つの対象に関わる今の状況にとっての妥当性が優位を占める。そこでは、共通あるいは共同の状況に対する妥当性の一致が働いている。

この二つの理念化の総合が、視界の相互性の一般命題をなす。視界の相互性の一般命題は、「経験の対象の社会的典型化と言語的客観化」の基礎付けとなる。このことは、社会契約によって可能となるのではなく、契約以前に既にある、歴史的社会的状況の中に生まれ込み、その中で生きる人間の自然的態度の中に所与として構成されている。視界の相互性の概念は、われわれ一人一人が独自の視界の中心であり、独自の生活史の主体であると同時に、言語や社会関係の諸レベルといった、相互主観的(inter-subjective)な社会的文化的世界を構成している存在であることも説明する。

8)矢谷慈國『生活世界と多元的リアリティ』関学生協出版会を参考
 

第3節 生活世界の社会的構成と多元的リアリティ9)
 

本節において、私が思い出し、あるいは思いついた中から、幾つか選び出した出会いの対象を、A・シュッツと矢谷慈國による生活世界の社会的構成と多元的リアリティによる区分に類型化してゆく。生活世界の社会的構成は、私と他者との関係に促して四つの世界に分けられる。

共在者の世界(Um-welt)」における他者は、「同時代人」の中でもface-to-faceの関係を共有している人々である。他者を私と同じ人間として直接経験するこの普遍的な形式は、「汝志向(thouorientation)」と呼ばれる。汝志向は一方的な場合も相互的な場合もあるが、相互的な汝志向を「われわれ関係(we-relation)」と呼ぶ。

同時代人の世界(Mit-welt)」における他者は、私と同じ時代に生きて、現実を共有している人々であり、「共在者の世界」はこの世界に含まれているのだが、私を中心とする周囲に別格化された「同時代人の世界」において、私は、他者を直接経験してはおらず、世界時間(world-time)の中に共在しているものとして、私の以前の経験と知識のストックに基づいて生活世界的な理念化を通して形成された、種々のレベルの典型として、これを「彼等志向(they-orientation)」と呼ぶ。我々の同時代人の経験は、典型化(typification)と結合しており、典型化はその程度に応じた種々のレベルでの匿名化を含んでいる。

先行者の世界(Vor-welt)」は、世代の連続の経験によって同時代人の世界との境界を曖昧なものにするが、先行者の世界を特性付けるのはその完結性と既存性である。我々は、先行者の世界を完結したものとして受け取らなければならず、彼等の事跡は、その意味の解釈の可能性に関しては開かれたものであるが、事跡そのものとしては、変更できない完結したものである。私は先行者の世界へと典型化を通じて志向するが、それは一方的志向であり、われわれ関係や同時代人との関係のような相互行為や伝達の可能性は閉ざされている。

後続者たちの世界(Forge-welt)」は基本的に開かれており、不確実な世界である。高度に匿名的な典型化によってのみ経験できるに過ぎない。私はこの子供が私の死後も生き、現在私が直接経験している彼の意識生活は、未来にも展開して行くだろう事を仮定できるが、それがどんな内容を持って行われるかは未決定に止まっている。同時代人の世界に適切な典型化が、後続者たちの世界にも適用可能かどうかという問題は、原理的に答えられない。

次に「多元的リアリティ(multiple-reality)」について簡単に定義する。

「多元的リアリティ」とは、日常生活の現実を超越する、多元的意味世界の諸現実ということを、意味する。人間が世界を経験するし方は、単一的なものではなく、その対象が属する意味世界の地平に応じて多元的である。人間の世界には、各々それ自体の特殊な、相互に区別可能な経験の諸様式を持った多くの現実の秩序が存在している。それは、対象自体の存在論的な統一や秩序によって成り立つのではなく、主体によって意味付けられ、秩序付けられた意味世界なのである。また日常生活の世界に対応するのは、相互主観的な代理現前的関連付けの形式である記号(sign)であり、その他の多元的意味世界は、記号よりも超越の次元の高い象徴(symbol)に対応するものであるという意味で、日常世界の現実よりも高次の世界であると位置付けられる。

以下、生活世界の社会的構成に私の思いついた対象を当てはめてゆくが、多元的リアリティの諸区分にあてはまるものについては、図上の区分に任せることとする。

9)矢谷慈國『生活世界と多元的リアリティ』関学生協出版会を参考