◎『指揮のおけいこ』と『アマチュア指揮者』◎
指揮者の岩城宏之さんが、『指揮のおけいこ』(文藝春秋社)という本を出版された。
私は岩城さんのエッセイを昔から5~6冊くらいは読んでいて、大いに勉強させて
頂いたり、楽しませて頂いたりしてきた。氏のエッセイのユーモアとサービス精神、
飾らない正直な語り口などが、とても好きだ。私が物書き好きになったのも、この
エッセイ好きに端を発している。他には椎名誠さん、斎藤茂太さんなどの影響も
受けているように思う。
私が『指揮のおけいこ』を本屋さんで発見したのは、このホームページを開設した
すぐ後だった。この先どんな内容で展開して行こうか、悩んでいた矢先だったので、
これは素晴らしいタイミングで"ネタ本"が見つかったなと小踊りして買ったのだが、
読み終えたときの心境は、やや複雑なものだった。
この本は、世間一般の"指揮者"に対するイメージが、現実の"指揮者"の姿とは
かけ離れたものであるという事実を、ユーモアたっぷりに、あるいは涙ながらに、
時には辛辣に解説している傑作エッセイである。"おけいこ"の対象は、一般の
音楽愛好家を想定して書かれている。われわれアマチュア指揮者にとっても役立つ
内容が多く含まれているのは事実だが、一方で一般にいわれる"(職業)指揮者"と
"アマチュア指揮者"の違いもまた、かけ離れたものではないかと思った次第である。
このページを構想しながらずっと、私のような人間が指揮法を語って良いのだろうか、
という漠然とした不安を持っていたが、それはこの本の中でも語られている、
「指揮とは教えられるものではない」という言葉が、引っ掛かっていたからなのである。
だが、プロの指揮者には、指揮を師事した人が多いのも事実である。カバン持ちを
していただけだとか、リハーサル風景を覗き見したくらいで教わった事などないという
話も多いが、"何も学ぶものが無かった"ということはないはずだ。
『指揮という"行為"の内の半分くらいは、教えたり習ったりする事が可能である』
というのが、今の私の結論だ。特にアマチュア指揮者は、"指導"という指揮行為とは
また別の次元の問題を抱えている。"指導"してもらうという経験も、あるいはまた、
アマチュア指揮者の勉強の内であるに違いない。
そのような立場から、岩城氏がこの本の中で、
『ぼくの指揮についての真意を、大マジメに書く』と断って挙げられている項目について、
あえて反対の事を主張してみようと思う。(笑)
1.指揮を習うことはできない。
→ 1.指揮は、習うことができる
2.指揮を教えることはできない。
→ 2.指揮は、教えることができる
3.指揮者には、なるヤツだけがなれる。
→ 3.指揮者には、どんなヤツでもなれる
4.指揮者になれないヤツは、なれない。
→ 4.指揮者になれないヤツは、いない
岩城さんのいいたい事と、私のいいたい事の違いが、わかっていただけると思う。
"相反している"ということは、"関連している"という事でもあるのだ。
最後に私が共感した部分も、一つ引用しておきたいと思う。
”不自由な外国語だと、余計なことを言う余裕がない。
自分が使える単語で、
ズバリと要求することになる。
「a little softer,please」
ところが母国語だと、
「あのね、そこのところは曲全体の構成から考えて、前後のバランスを美しくするために
柔らかめに音を出す方が、作曲者の意図をもっと生かすんじゃないでしょうか.......」
などと延々としゃべってしまう。
(中略)
世界には何カ国語もペラペラの指揮者がゴマンといる。しかし自分が生まれ育った国の
言葉では、一番自由になる。
そこにコワイコワイ落とし穴が待っている。”
アマチュア指揮者は、職業指揮者よりも、しゃべらなければならない場面が多いような
気がするんです...岩城センセイ!?
初出[99/10/15]
改稿[99/10/17]
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"アマチュア指揮者"というコトバは、一般にはあまり使われていない。
殆ど全ての(職業)指揮者は、たとえ常任であっても契約制であるのに対し、アマチュアの、
特に吹奏楽の世界では"指揮者=楽団員"であるケースが、大半を占めていると思う。
このページの題名を決めるに当たっては、『アマチュア指揮者』をいうコトバを使う事に
ついて、正直いって相当迷った。その辺のことについては、近いうちに、洗いざらい
書いてしまいたいと思っている。
(.........聞きたいですか?(^_^;)