◎ 作るきもち ◎
先日、現代の子供たちに関するテレビの論評番組を見ていた。
あるコメンテーターは、現代の子供は殆どが生産社会の中ではなく
消費社会の中で育っていると述べていた。何か作り出したり、何かの
成果を生み出すためのプロセスを工夫したり、地道に積み重ねたり
する経験に乏しく、お金があれば何でも手に入るように錯覚してしまう。
社会性の涵養を促進する幼少期の遊びにおいても、走ったり、人と
ぶつかったりするような遊びが減り、機械を相手に部屋で座って遊ぶ
ような時間が徐々に増えているようである。
しかしながら、そのような生活環境・社会環境は、子供達が自由に
選べるようなものではないし、幼少期の生活体験の乏しさが自分達の
生活に肉体的・精神的に影響を及ぼしていることを、ひょっとしたら
子供達は、既に身をもって感じているのではないだろうか。
私ももう、30代の半ばを過ぎ、いまどきの子供達の様子と、自分が
子供の時の記憶を重ね合わせて考えることが場面が多くなってきた。
自分が子供の頃だって、世の中は十分に便利だったし、新人類と
言われ出してたのは、もう一つ上の世代だったように思う。それでも
トランシーバーは男の子の憧れの的で、携帯電話やインターネットで
どこででも自由に人と会話できるなんて、まるで未来都市の話だった。
小学生の頃、母が近所で開業した『ほっかほっか亭』がめずらしいと
いって、鮭の弁当を買ってきた事を思い出す。私は「何でこんなもん
売ってるんだろう?」と思った記憶がある。今ではお弁当もお茶も、
味噌汁までコンビニで買うのがあたり前となりつつある。当時、殆ど
見掛けなかったコンビニも、今ではどこに行くか迷うほど沢山あるし、
その多くは行きたい時に行けば開いていて、お金さえあればいつでも
何でも買えそうな気がする。また昔は、遊べる空き地が今よりもう少し
多かったし、自動車は今よりもう少し、すくなかった。
ここ数年、子供達に吹奏楽を教えることが多くなり、自分の子供時代と
今の子供達のギャップを感じることも多い。吹奏楽は全身のバランスを
駆使して演奏する楽器だから、基礎体力・呼吸能力・瞬発力・敏捷性等、
身体能力が充実してこないと、響きのある音を出すことが難しい。
けれど深い呼吸が苦手だったり、楽器を支える四肢の発達や、発音を
作り出す舌や顎の発達が未熟な子が、前より目立って来ているように
思う。
またその音は、ただデカければ良いのではなく、感じる心、認識すること、
受け止める心、伝える意欲がなければならず、難しくいえば他者理解・
自己理解・自己表現・伝達意思等の裏付けが必要であるが、指導の
呼びかけをしていても、あまりの無反応さや無頓着さに驚いてしまうよう
なことが少なくはない。それが中学生なのかもしれないけれど・・・。
果たしてこれが本当に子供達全体に見られる傾向なのか、また本当に
年々顕著になっている事なのかどうか、中学生の吹奏楽指導を始めて
まだたった2~3年の私が決められることではないのだが、危機感を
募らせている現場の方々は多いように思う。
吹奏楽の指導していると必ず、ある乗り越えられない壁のような物に
付き当たる瞬間が来る。私にはそれが、子供達が自信と自覚という
見慣れぬ重い武器を持ち上げることに躊躇している場面ではないかと
思うのだが、それは音楽を『消費するもの』として捉えていた心が、
次第に音楽とは『生産するもの』なのだと気付いていく過程ではない
だろうかと、番組のコメントを聞いていてふと、そう思ったのである。
そういう私だって、現代っ子だ新人類だと、言われ続けてきた世代である。
自分の中のひ弱さを気にし続け、あるいは嫌い続け、劣等感や不安感と
共に生きてきた、いまどきの子供達のはしりの世代である。そんな私を、
音楽は耕し、鍛え、守ってくれてきたのだと思えるようになったし、子供達
に伝えていく情熱の原点もそこにある。前にも書いたが、自分が本当に
教えてあげたいのは、昔の自分なのだと思っている。音楽や演奏について、
知識も要領も知らない子供達の葛藤する姿に、私がすぐに感動してしまう
のも、そのためであろう。
お金では手に入れることのできない感謝の気持ちを持っていれば、
音楽は子供達に作られながら同時に、子供達を耕し、鍛え、守って
いってくれるに違いない。
[03/07/15]
より大きく変わり続けるのは、子供達の方ではなく子供達を取り巻く環境の方
であり、子供達の心の奥底は、今も昔も変わらないと信じている。
子供達が環境の変化に大きく引っ張られてしまっている事実を忘れてしまうから、
子供達の心がわからなくなり、信じられなくなってしまうのではないだろうか?。