◎ 確信を持って演奏するということについて
◎
母校の高校の「文化祭・学内発表の部」で吹奏楽部の指揮を振ってきた。
曲はコンクール自由曲として練習してきた『丘の上のレイラ』。銅賞という
結果だったが、会場では何人もの人から「感動した」との言葉をいただく
ことができた。技術的には、未熟としか言いようの無い演奏だったにも
かかわらず、このような反響をいただくことができた一番の原因は、この
曲の持つ本質的な美しさに他ならないのだが、曲の表現のため真剣に
取り組んできた事への成果でもあるはずだと、落ち込む気持ちの一方で
そう固く信じてきた。
通常「文化祭」では、コンクールの反動というか息抜きというか、生徒達が
耳なじみのあるJ-POPやアニメソングなどを、学生指揮で演奏してきた。
「学内発表」というのは一種の強制参加であるから、完成度や満足度が
低ければ、聞いている生徒達の集中力はとてももたない。
昨年はそんな野次のために、涙した部員もいたと聞いていた。
私は今年初めて、文化祭の選曲に口を挟んだ。コンクール自由曲に選び、
長いこと集中して練習してきたこの曲を、全校生徒と先生の前で披露する
ことを強く提案したのである。コンクールという場には、部活をつかさどる
学校の名前を背負って出場しているのだし、莫大な時間をたった1~2曲に
費やして練習してきたのだから、これこそ学内発表する値打ちがあるはず
である。コンクールに出品した曲を、「一般受けしないから」といって学内の
人達の前に披露しようとしないのならば、その部活動とは、コンクール出場
とは一体何だろうか?。
私の提案に生徒達は戸惑い、やや半信半疑な気持ちを持って文化祭での
演奏に臨んだ生徒もいたのではないだろうか?。
コンクールでは「銅賞(参加賞)」しかもらえなかったというのに・・・。
しかし提案した私には、「絶対に喜んでもらえる演奏にする」という前向きな
気持ち以外何も無かった。聞いて良い演奏だったかどうかを判断するのは、
聞き手の勝手であり、私達の仕事は「聞き手に問うこと」である。
「知っている曲をやればウケるだろう」という発想に基づく選曲方法には
一理あるが、安易な考えの演奏は思わぬ失敗に終わりやすいものである。
「文化祭・学内発表の部」当日は、午前中に様々な演奏・パフォーマンスが
並ぶ中、吹奏楽部はなんと「取り」であった。決して上手だと思われている
クラブでは無いはずだが、やはり吹奏楽というのは音楽文化の担い手として
認識され、期待を受けているのであろう。しかし一方で、何時間も座って
人の演奏を集中して演奏を聞くことに慣れていない生徒達の中には、退屈が
限界まで来ている者もいるようであった。
昼食の直前だから、お腹がグーグー鳴っている者もいるだろう。・・・(>_<)
考えてみれば、過去に文化祭の学内発表の部で指揮をした記憶が無い。
またふだんは、静かな吹奏楽のコンサートでの指揮に慣れている私にとって、
これだけザワザワした聴衆の前で演奏した記憶も無い。
退屈している生徒達にとっては、「学内」発表なのにふだんは見かけない
オジさんが、少々格好付けた服を着た出てきて、偉そうに棒を振っている
のである。なかなかいいゴシップネタを提供したようで、早速茶化すような
声が飛んできた。「カッコイイー!」とか・・・。
ある程度予想はしていたものの、ふだん慣れている静かなコンサートとは
明らかに違うこの生々しい環境に、私は次第に挑戦的・挑発的な気分となり、
燃え上がるものを感じ始めた。部員達はどちらかといえばおとなしい子達が
多いが、その場の雰囲気にコンクールの時の悔しさが重なり合ったのか、
彼らの目はコンクールの時より力強かった。必死のもがきのようでもあったが、
今までで一番集中力と推進力のある「なまぐさい音楽」が展開していった。
会場のざわつきは最後まで完全に止むことは無く、演奏を茶化すような声も
完全に消えた訳ではなかった。だがその中の何人かの生徒が、演奏を聞き
進むうちに「これは・・・!」と、心に「カツン」という瞬間が来る違いないと確信し、
私は後姿で強烈にメッセージを発しつづけた。これほど後ろを気にして指揮を
した事は無かった。後から考えてみれば、幾度となく人の真剣な姿に打たれ、
学ばされたと感じてきた経験が、この瞬間に生きていたようにも思う。
演奏後体育館を通りぬける私は、幾人かの生徒と先生の視線と「気配」を感じ、
1人の知らない先生は、実に爽やかな表情で一礼をされた。
聞いて良い演奏だったかどうかを判断するのは、聞き手の勝手。
私達の仕事は、「確信を持って演奏し、聞き手に問うこと」である。
[01/10/02]