◎久しぶりに母校の定演に出た話◎
今年の春、久しぶりに母校の吹奏楽部の定演に"賛助OB"として参加した。
部員が少ないということで、出演したOBの殆どが全曲を演奏する事になっていた。
顧問の先生は数名いらっしゃるのだが、唯一指揮をしてくれていた先生は、昨年
転勤になってしまっていて、指揮は2名の学生が担当していた。
1年間ほぼ学生だけで練習・運営してきたのだから、それは大したものである。
しかしながら学生の運営管理や指揮には、OB(客演奏者)からすれば不親切に感じる
部分が多く、学生の自治的な雰囲気にはある程度共感しながらも、不満は募った。
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練習の時、指揮をスネアドラムのスティックで机を叩きながら行い、テンポの
変わり目やフェルマータのところに来ると、曲を止めてしまうのには、まいった。
「本番と同じ方法でやってもらわないと練習にならない。」と思った。
・・・なぜなのだろうか。
最近になって、指揮というのは自動車の運転に似ているなぁと、よく思う。
演奏中の楽団とは、走行中の自動車の如く、一定のリズムに乗っかってしまえば
効率よく心地好く、エネルギーも最小限で済んでいるのであるが、ひとたび運転手が、
スピードを"上げる、下げる、急停止する"となると、大きなエネルギーが必要となるし、
急には止まれない。高性能の自動車であっても、高速走行時に無理やり急停車しようと
すれば、遠心力による人間へのダメージが避けられない事と、似ている。
良い奏者ほど自分の演奏を完全に制御する為に、変化を先読みしながら計画的に
演奏し、急激な変化には瞬間的な認知・判断を行って、最大限の神経と最小限の
筋肉を駆使してエネルギーを増減しようとする。この時、どのくらいの間にどのくらいの
量のエネルギーを変化させるのかを示すのが、指揮法なのだともいえる。
フェルマータの停止と開始、テンポの変わり目、リタルダンドとアッチェレランド等の
処理を、ある時ある箇所で急に悩み出しても、良い答えの見つかるはずのない理由が
ここに存在する。
こうして考えてみると、スコアリーディングが"なにゆえに"必要であるのかがよくわかる。
今回の参加は、学生の自主性を重んじて静観するつもりでいたのだが、指揮者の学生
には、本番と同じ指揮法をしてもらうよう懇願した。(ただしOBだとつい言いすぎてしまう
ので、一奏者の意見としてなるべく淡々と語るように心がける。)
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生徒の演奏はいわゆる"オールフォルテ"(簡単に言うとppとffの幅が狭い)で、これは
昔から気になっていた事なのだが、原因の一つが明らかになった。
合奏練習で、大した要求も無く、トゥッティでの繰り返しを要求するが多いからなのである。
この練習に参加しているうちに、私はだんだんヘトヘトになってきて、演奏をところどころ
休まざるを得なくなるほどだった。最初は、久し振りに吹いたから仕方がないのだろうと
思っていたのだが、生徒達は見た目には疲れた様子はなく、少し不思議になってきた。
「わたしゃーもう、年かのう。」と思ったのだが、周囲の学生は『このオジさんは何とデカい
音を出すのだろう...』という目で、時々私を見るのである。
もちろんppの時は、私の音がいちばん静かで、きれいな「はず」なのだ!...?。
楽員は、指揮者が何を要求してきているのか、自分は何をクリアーすれば良いのかが
把握できないと、何回くり返しさせられるかが読めなくなり、ペース配分ができなくなる。
ひどい時には、"クリアー出来たかどうか"すら十分には知らされないため、一生懸命
演奏するほどに疲れる。こんな練習についていくために、大きなダイナミクスの変化や
細かい音のコントロールなどを、知らず知らずのうちに犠牲にしているのであろう。
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この話は、未熟な指揮者と楽団の間の、特殊な例なのかもしれない。
だがしかし、練習中に「今のところ、もう一度演奏して下さい。」と要求するのは、
指揮者の仕事だ。
"人事と思えない"のは、私だけではないだろう。
[99/08/21]