◎なぜ指揮を見ないのか?
・・・えらい題材を選んでしまったものだ。
(^_^;
このことを指揮者の立場から考えるのは、なかなかうまくいかないものだ。
指揮者としての経験を積んでから奏者の側に座ると、なかなか見えなかった自分
の
指揮の短所がたやすく見えてくることがある。どなたの本にだったか、自分の
指揮をビデオに撮って、無音で再生しながらそれに合わせて演奏してみると良い
と
書かれていたが、なるほどこれ以上の勉強法は無いだろうと思う。
最近よく思うのは、奏者の(重要な)入りの時に、指揮者はちらっとでも相手を
見た
方が良いのではないかいうことだ。案外下を向いたまま振っているケースが多い
の
だが、そんな時には奏者も「なんとなく・・・」入って来がちだと思う。
どんなに力のある奏者でも、十分にさらえているパッセージであっても、合奏の
中
では自分勝手に演奏することはできない。さりとてただ全体に沿うだけの、無難
で
穏便な演奏もまた許されない。奏者は音楽の流れに沿って新しい響きや気分を
プラスする時でも、それまでとは全く異なる動きを開始する時でも、一つきっかけを
与えられるだけで、
その仕事のやりやすさが随分と変わってくるように思う。
合奏におけるベストの演奏というものは、常にその全体の中で行われ、全体の中
で
評価されるからだ。
自戒も込めて「奏者が見る気の起こらない指揮」というものを考え、思うまま羅
列
してみた。
「欲しいもの」が無い。
「サイン」が無い。
表情が変わらない。
自分の演奏に指揮者が反応しない。
「流れ」や「区切り」が感じられず、見ると余計に入りにくい。
見なくても別に注意されない。
自分にあまり関係が無い。
人は、自分の話しをよく聞いてくれる人の話しはよく聞くものだという。
話し上手は、聞き上手。
指揮者は「如何にすれば我の意志は伝わるか?」という立場で考えているものだ
が、
「奏者は何を欲しているのか?」「どうすれば奏者はベストの演奏ができるの
か?」
奏者のベストの
演奏をしたいという欲求を満たすために、自分は何ができるのかを
知っている指揮者は強い。
[00/05/02]